メインカテゴリーを選択しなおす
愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。(7) 神の民が初めに神からたまわった律法は、イエスによる罪のあがないによって廃棄されたものではなく、イエスを信じることによって、それまでの不可能が可能になったのである。 律法はイエスによって成し遂げられて福音となり、イエスのうちに在る者に完成された。彼らはいのちの望みに満たされ、聖霊による交わりの中で神の子どもの喜びを生きている。しかしイエスを主と認めない不信仰は、自ら律法のさばきのもとに留まり続けるのである。また、聞いたみことばを心に留めることなく、故意に胡麻化してやり過ごして来た者に、改めて命じられるのは主の忍耐と憐みに拠ることで...光と闇、霊と肉(1ヨハネの手紙2章)
さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。(20~21) それは、神のご計画によって死ぬべき体を纏って地に下られた、イエスの最後の時が来た知らせであった。イエスはこの時をどれほどに恐れておられたことであろう。それはイエスが罪を知らないお方であり、イエスを最も恐れさせたものは負うべき人の罪であって、経験したことのない罪の恐怖である。罪を負えばきよい神を父とは呼べず、それまでどんな時も一つであられた関係が断絶される恐怖である。 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ま...光りのあるうちに(ヨハネの福音書12章)
人が罪に陥ったとき、すなわち、その人自身が見ていたり知っていたりする証人であるのに、証言しなければのろわれるという声を聞きながらも、それをしない場合、その人は咎を負わなければならない。(1) 罪に対して、見て見ぬふりをすることはのろわれるとある。確かに見て知っているのに、見ぬふりは罪を放置することである。罪を証言することによって、解決に至るささげ物が捧げられ、あがなわれて罪が解決されるからである。 「軽々しい誓いによって後で責めを覚える場合」もあがなわれる必要があることが書かれてあり、このような咎めは今も経験することである。このような時も私たちは、キリストの赦しを願って祈るなら、十字架の血潮によって罪を洗いきよめられ、その咎が赦された確信を得るのである。 このようにして思い出した罪を直ちに祈る中で、咎めを負い...責めを覚えて救われる(レビ記5章)